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【爻】水槽のアムネシア
掲示板
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依頼前の挨拶スレッド
最終発言2017/11/11 00:57:47 -
質問卓!
最終発言2017/11/09 02:41:56 -
相談卓!
最終発言2017/11/10 23:43:35
オープニング
●A.褪せた薔薇
「ここを、見つけるなんて、本当に優秀、ですね」
苦しそうに息を吐くのは、床まで届く真っ直ぐな混じりけの無い緑の髪を持つ小さな愚神であった。
一メートルもない背丈、やせた手足の少年のような姿。
「お前の特技が催眠だとわかれば、怖いものはない」
ぶっきらぼうに告げたのは共鳴したミュシャ・ラインハルトだ。彼女は自分の花を刻んだ剣を忌々しい愚神──ヌルへと向けた。
「そうです。僕は、催眠しか使えない、非力な、傍観者ですよ」
少年ははかなげな笑みを浮かべたが、それはミュシャの神経を逆なでするだけだった。
「貴方は、僕を倒して、いいんですか?」
彼の言葉にミュシャは冷たい瞳で愚神を見下ろす。
「命乞いは聞かない」
しかし、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「命乞い、なのでしょうか。僕は取引を持ち掛けているんです。貴方は以前、英雄が催眠によって邪英化のような状態で暴れた日のことを覚えているでしょう。
──あの日、操られていた貴方たちは人類から罰を受けることは無かった。愚神の力で操られていた貴女は罰せられない」
いつの間にか、ミュシャの剣先は下がっていた。
そして、こういう時には必ず彼女へ警告を発するはずのエルナーの声も無かった。
「どうですか、もう一度。貴方が私の催眠を受け入れれば、英雄の記憶の無い状態で貴方は。
──憎い彼ら、ヴィランを殺せるのです」
●B.それは刈り取るべきなのか
──ふわふわ、ふわふわと……透明な水槽の中で褪せた薔薇が浮かんでいる。部屋の振動で揺れるそれの下で眠るのは”彼”が誓約を交わした”能力者”だ。
「……どうです?」
小さく小首を傾げて、非力な少年に似た姿のヌルはエルナー・ノヴァに問いかけた。
「あれが貴方の契約者。貴方はあの心弱い娘を喰らうことができる」
水槽の中で眠るミュシャ。
その水槽の前でエルナーは眠る彼女を見上げる。
……ヌルとの取引を承諾したミュシャは足下から出現した円柱の水槽に囚われ、代わりに共鳴の解けたエルナーがヌルの前に立っていた。
エルナーは言葉を失い、ただそれを見ていた。
「……僕は、彼女を──」
「支えていた、のは刹那の命だけですね。それが人間です。彼女の思考は──」
ひ弱なヌルは心底困ったようにエルナーへと語り掛けた。
「──どうしますか? 『勇者』エルナー」
●花に抗う
──ふわふわ、ふわふわ……花弁と一緒に動くのは彼女の長い茶色の髪。
何度も何度も水槽の厚い壁を叩いていたミュシャは、己の無力さに膝を折った。
水の中のミュシャは眠ってなど居なかった。円筒形の水槽の中で自分を絡めとろうとする薔薇に抵抗しながら何度も英雄へと訴えかけていた。
けれども、それはエルナーには見えない。
彼にはミュシャは……恐ろしい取引に頷いた彼女は愚神に囚われて眠っているように見えているようだった。
──怖い。
暴かれた恐ろしい願望を否定することができない。
それは、エルナーにだけは隠したいと思っていた。
以前なら、以前の強い自分だったら、きっと鼻で笑って……それを堂々とエルナーの前でも口走っただろう。『ヴィランを殺せるなら』──と。
けれども、今の彼女は他のH.O.P.E.のエージェントたちのように、自分も前に向かって動いているように師でもある英雄へ見せたかった。
そして、陽の当たるところでたくさんの人々と交わしたたくさんの言葉。その中で生まれたパートナーへの想い。
「エルナー……」
名前を呼ぶことすら恐ろしく、そんな彼女の前で当のエルナーはただ無言で立ち尽くしていた。
●C.ただ、歌う
壊れた屋根の隙間から夕陽が差し込む廃墟の中で、一人の女性が歌っていた。
歌う彼女の名前アデリナのリーナ。相棒のクリフと共鳴した状態ではあったが、姿はリーナに近かった。
歌うのは彼女たちの曲『エヴェイユ』。
『夢が叶って良かったですね、リーナ』
ヌルの声にリーナは歌いながら微かに頷く。
『いつまでも、彼と一緒に歌っていたい──素敵な願いです』
同時に、ヌルはリーナへと聞こえない声でクリフに囁いた。
『満足ですか、クリフ』
姿の見えない彼は頷いた。
『貴方の願い、いつまでもリーナを守り、一緒に居たい──もう少しですね。もう少しすればもっと完璧に叶えることができます』
廃墟にはリーナの声だけが響いていた。
解説
ほぼPL情報です
【爻】延長戦シナリオは一日内の出来事です
●目的:幻影世界からの脱出、もしくは定住
能力者と英雄は既にヌルの幻影世界へ囚われています
能力者がヌルを拒否するか、英雄がヌルの申し出を拒絶すれば抜け出すことはできます
このストーリーでは「拒否せず定住」を選択できます
●プレイングについて
下記のプレイングをお願い致します
A.能力者が英雄へ見せたくないと思っている姿、主張
※能力者がヌルの甘言に惑わされる、もしくは完全に催眠下
B.Aに対する英雄の反応
C.能力者と英雄、それぞれの反応と選択(食い違っても構いません)
Cまで選択した後なら他のPCから干渉を受けることができます
ただし、その場合はプレイングで互いの名前を書き干渉OKと一筆お願い致します
※NG項目がある場合は明記してください
※ABCに邪英化RPを含めてもOK
※定住したPCはリプレイスメント化(邪英化したと思い込んでいる催眠状態)になります
※三作目にリリースされる予定の【爻】ヌル戦のシナリオに参加しない場合は
リプレイスメント化したエージェントがいるとだけ書かれ、具体的に【爻】ヌル戦には描写されません
●リーナ&クリフ戦
中堅程度のドレッドノート
定住を選択しなかったPCのみ
●幻影世界 ※催眠によって誘われた世界
能力者が英雄に見せたくないと思っている姿・主張が現れる世界
いつの間にか迷い込んでおり、それがドロップゾーンなのかVR世界なのかはわからない
ヌルと能力者の取引、もしくは誘惑を英雄は見ているが、英雄が見ていることを能力者は知らない(と英雄は思っている)
ヌルは「こんな能力者は捨てて貴方が主になりましょう」「仲間になりましょう」等誘う
ヌルの拒絶・受け入れを選択する所でこのシナリオは終わりますが、
それが叶うかどうかはプレイング次第です
リプレイスメント・ファイルをお持ちの方は記録されている邪英化PCを出すことができます
リプレイ
●誓う世界
案内された席につくと彼女は微笑んだ。
「今日の映画、とても面白かったわね」
その声は他のどんな音より心地良く、彼は満ち足りた気持ちになる。
「気に入ってくれたのなら、何よりだ……」
「これからどこに連れて行ってくれるの?」
楽しそうな彼女の瞳に自分が映る。それがとても幸せだった。
「ここで軽く食事をして……それから、見せたいものがある。期待しててほしい」
「そう、とても楽しみだわ」
──声に色があるなんて、何気ない言葉がこんなにも心に染み入るなんて。それは平穏で平凡で、なんと素晴らしい日々だったのだろう。
テーブルに広げたメニューを見て、ふたりであれこれと笑い合う。
他の客たちの声に紛れて目立つこともない普通の光景。
「……?」
そんな穏やかなひと時の中、ふと、違和感を感じ、彼は喉をさすった。
室内の乾燥で渇いたのか──心配する彼女へ大丈夫と答えて、辺是 落児(aa0281)は冷たい水に口を付けた。
●死を畏れ、悼み
やさしい闇、静かな微睡、それは安寧が眠る棺の底──。
邦衛 八宏(aa0046)は愚神ヌルが作り出した世界で目を伏せた。
「ここは最も死に近く最も遠い場所。あなたのための世界。あなたはここで生きることを選べます」
枯れ枝のような少年──愚神ヌルの姿を見て八宏は察した。この少年は『死んでいる』。
ならば。
倒さなくてもいいのではないか、戦う必要はないのではないか。
少年の弱々しい姿がそう語りかけて来る。
「貴方が足掻くことは、誰の為になるのでしょう? だって、貴方自身はそれを望んでいませんよね」
ヌルの空虚な言葉は、なぜか八宏の胸を叩く。
……自分は異世界からの迷い猫を送り返さなくてはいけない。
そのために彼は頑張って来た。
そのために性分に合わないことも、自分なりにしてきた。
その結果、思わぬ人との縁も、彼が心の底で望むように人の役に立つこともあった。
「…………『生きろ』『前に進め』、……『偶には笑え』……あの子は、そういつだってそう言います」
愚神の誘いを受けて八宏が脳裏に浮かべるのは陽のような彼の英雄。
うっすらと笑みを浮かべたヌルは首を傾げた。
「……ですが、僕は……」
彼とは違う。
●そばにいつも
惜しみない愛を降り注いでくれる。
それが、わたしの家族。
喧嘩も、行き違いだってあるけど、いつも愛してくれた両親と大切な弟。
温かな、大好きなわたしの家。
「──ぁ……」
それはある日起きた。事故だった。
全力で頑張って、なのにねぇ、助けられ、なかった……。
つめたい目。
『どうして父母を助けてくれなかった』
つめたい声。
振り払う腕。
つめたい拒絶……?
「どうしてみんないなくなるの?」
シエロ レミプリク(aa0575)の強張った瞳が宙を彷徨う。
事故──で、失った両親。
「どうしてウチを必要としてくれないの?」
拒絶により閉じられた壁の向こうへ消えた大切な弟。でも、閉めたのは彼。
「頑張るから、わたし負けないから」
かりかり、かりかり。
両手がベッドを引っ掻くけど、そっちへ行くことはできない。だって、足が、ないから。
「……ぁ、ぁ……」
──ひ、や、あ、あぁああぁああああ!
狂人の絶叫が轟く。
●克己の誓い
「僕は、貴方から、奪うことができます。死を与えるのではなく──生を、奪える」
木陰 黎夜(aa0061)は愚神の少年といつから相対していたのか、わからなくなっていた。
「貴方は死を望んでいない。けれども、生を放棄したい。
ずっといたたまれないと感じていた、これらに幕を下ろすことができる」
少年の囁きに黎夜は首肯した。
少女は──死んだら等しく皆「おなじもの」になると、ずっと考えていた。
そこに個性はなく──ただ、おなじに。
だからこそ、少女は死んだ自分の家族とおなじものには「なりたくない」とずっと思っていた。
けれども、その一方で「生き」ていても「死ん」でいてもどうでもいいんじゃないかと思うこともあった。
彼女の日常では度々生きている「意味」を問われる場面を目にする。それを思うのはそんな時だ。
──うちは……うちの生きている意味を考えると、恥ずかしくなる……。
例えば、アーテル・V・ノクス(aa0061hero001)は彼女が楔となって現世界に繋ぎ止めた英雄だ。
同時に。
──うちは、「アーテル」に迷惑をかけ続けてる……。
彼が大好きな弓を引けなくなったこと、そして、日常で女のような口調を強いている、それは全部自分が原因だ。
だから、彼の彼らしさを殺しているのは自分じゃないかということが──とてつもなく恥ずかしい。
黎夜の生きる意味。
それは日々の美味しい食事。
それは新しく英雄として来たあの子を幸せにすること。
それは、アーテルに恩を返すこと。
死にたくない理由だってちゃんとある。
──でも、生きる意味が今ととてつもなく矛盾しているように感じてしまう時がある。
たとえば、彼女が思う生きる意味を意味として掲げることすらおこがましくて、恥ずかしくなって。
その羞恥は、なぜか大きくなって、そして今は死にたくない理由を上回ることもあって。
わからないけど。
でも、無駄に死ぬことはできなくて。
でも。
「でも?」
愚神はにっこりとその先を促した。
──ああそういえば。そうか。
「アルブム……?」
アーテルが恐れる邪英化の幻として現れたリプレイスメント。それに名付けた名前を呟くと、そうだとヌルは頷いた。
アルブムが黎夜に言った。
「食べる」と。
それはすべてを叶えてくれるのではないだろうか。
せめて、「黎夜」の生死に彼の糧となる「意味」が得られるのではないだろうか……?
●守るべき
気付いた時には彼は多くを持っていた。
強くなればなるほど、守らなくていけないものは多くなって、守ろうと思えば思うほど、強くなった。
それは彼の逞しい両手でも守り切れないほど、大きく多くなっていた。
大切であればあるほど、それは大きく彼の腕の中を占有して、零れ落ちそうで、ほんとうは怖かった。
最初はたった一粒からはじまったはずなのに。
「俺は……もうこれ以上、大切な誰かを失うのは嫌なんだ……」
愚神ヌルが虎噛 千颯(aa0123)に用意したのは大切なものをしまう箱だった。
「貴方は堅牢な力を持つ方だ。なのに、未だに守れないものがあるのは、悲しいこと、です。なら、仕舞ってしまいましょう」
大きな箱は四方八方に広がり、すべてを包む。
ドロップゾーンだ、と歴戦の戦士である千颯は直感する。
「貴方の大切なものだけ、ここに仕舞うことができます。僕の力で出来たこの世界は、他の愚神に気付かれることなく、平穏で笑い溢れる貴方の望む世界。ここなら、貴方は貴方の力以上に守ることはなく」
かぼそい少年は虚ろな顔を千颯に近づけた。
「──取りこぼして失うことも、軽蔑されることもない」
世界が逆転した。
取りこぼした、軽蔑された、結果、過去に失ったもの──いつまでも疼く瑕跡から、またぐじゅぐじゅと溢れ出す痛み。
「俺を置いていなくなってしまうのは……もう嫌なんだ……」
崩れ落ちた千颯を小さな少年愚神が覗き込む。
「大丈夫、箱を持つ貴方を箱の中から見ることはできません。いつも箱ひとつぶんの距離で、開いた時には笑いかけ、閉じた向こうで座り込んだ貴方を誰も見ることもできない」
大切なものを失いたくない「から」と作る距離、箱はそれに正当性を与えた。
だから、千颯は箱を受け取った。
●よわの嵐
「……貴方は、安寧も安全も求めては、いないようです」
愚神ヌルと共鳴した御神 恭也(aa0127)の間の空間が白く光った。
そこに戦う恭也が次々と現れる。
日々の戦い、それから、シベリア、四国、エジプト、香港、生駒山と激しい戦いをも投影し……遡る。
「それで?」
映し出された恭也の姿は、時に合理的で冷酷で、必要があれば殺めることも相手の腱を切ることも厭わない冷徹さすらあった。
この愚神が何を言いたいのか恭也は察していた。
その上で冷ややかに相手を見つめる。
今までの戦いは恭也にとって恥じるものではないし、そう思わねばならないことをしているつもりはない。
唯一、感じることがあるとすれば。
──伊邪那美に対しては後ろめたさはあるな。
誓約を交わした英雄として彼に力を与え、その行動に立ち会わなくてはならない神を名乗る幼い姿の少女。彼女への罪悪感。
「貴方が属するH.O.P.E.とやらは、そして、貴方の行動は『正しかった』のでしょうか。愚神は、本当に真なる敵、なのでしょうか?」
ヌルは戦う恭也が映るそこへ足を踏み入れた。白い顔に映像が重なる。
「僕は、非力な愚神です。できれば戦いたくない。ただ、『英雄』を識りたかった。同じようにライヴスを喰らうものとして僕と英雄の違いを知りたかった。
そして、知ったのです。英雄と対なる者、H.O.P.E.の御旗のもとに負担に耐える能力者(ライヴスリンカー)の存在を。
この激しい戦いの中、生身の贄。
──いずれ、ライヴスリンカーは壊れてしまうでしょうね」
繰り出された拳に、骨が浮き出るような少年の身体は容易く地を転がった。
恭也は足下から噴き出した蔦を切り払い、更に愚神を叩きのめした。
踏み出した彼の背後で、円柱のような空の水槽が海中から突き出した鯨の顎のように閉じた。。
「くだらんな。どれほどお前が戯言を並べても、お前が行ってきた事で死者が出ている事実は変えられん」
変わり果てた水田はごみの様に放置されていた。召喚された従魔たちは街を蹂躙した。
「それに俺自身、正義なんて物は持ち合わせていないんでな」
そして、蹂躙されたのはリンカーたちの心もだ。そこに自分も、そして伊邪那美も含まれる。
「お前をこのまま野放しにしておけば被害が拡大するのは確実だ。H.O.P.Eとしては捕縛するのが正しいんだろうが……お前の能力は危険過ぎる」
転がったままで自分を見上げるヌルの視線を真っ直ぐに受け止めて、恭也は言い放った。
「悪いとは思わん。ここで息の根を止めさせて貰おう」
●懐郷と望郷
喫茶店の中。
落児たちが座る席のすぐ後ろでチェス盤を広げる女たちがいた。
その顔は瓜二つで、どちらも構築の魔女(aa0281hero001)を名乗るリライヴァーそのもの。
──リプレイスメントのシステムを利用して顕現した「懐郷」と「望郷」を名乗る「ふたり」だ。
「久しぶりね……『懐郷』」
「逆じゃないかしらね? ……『望郷』」
「まぁ、変わりないわ……と、チェックメイト」
「あら……? じゃぁ、次は私が先行で……」
白い駒を手に取った望郷が駒を並べようとすると、黒い駒を並べながら懐郷が尋ねる。
「後ろの楽しそうな彼は放っておいていいの?」
溢れ出した幻想世界の中、愚神ヌルは無言で立っていた。客もスタッフも愚神の少年など見えないように動く。
「構わないわ……わかっているでしょう?」
駒を並び終えた望郷が答える。
「まぁ、そうね。見られたくない想いがこれだものね」
今までのヌルのターゲットは、遠回りしたとしても最終的には英雄(リライヴァー)だった。ならば、この幻も、リンカーの絆か英雄に痛みを与えるための演出なのだろう。
駒を配し終えたふたりの声が重なる。
『大切な人を守れなかった絶望の先……
大切な人に願われた日常に生きて欲しいという想いも果たせず、それでも、失った絆という傷跡を繋がりとして日常を護って生きているのだもの……答えは明白だわ』
盤上で白黒の駒たちが静かに戦を始めた。
剣戟の代わりに駒を置く、固い音だけが響く。
「まぁ、だからこそ、夢に見るくらいなら許してあげましょう」
「上から目線ね……私達も似たようなものでしょうに。っと、チェックメイトだわ」
「あー、負けたわね」
辺是落児はヌルの幻影世界に囚われた。だが、共に落ちたはずの構築の魔女はその中を……あろうことか楽しんですらいる。
「──貴方は、彼を穏やかな世界へ戻してあげたいと思わないのですか」
ようやく口を開いたヌルだったが、チェスに興じる魔女たちとの対話は叶わなかった。
「勝負の邪魔だから静かにしてもらえないかしら?」
沈黙した愚神は影へと融けた。
「さて、私達は……実はどちらでも構わないけど……落児はどうする?」
チェスの駒を置いた魔女は背後の客席へと問うた。
途端に、まるでフィルムを止めた映画のように景色は停止し、周囲はモノクロへと変わった。
問われた落児は瞼を落とした。
「もしかしたら、寝首を掻いてみるのも面白いかもしれないわよ?」
もうひとりの魔女が物騒な誘いを男に仕掛ける。
じっと彼女を見つめて落児は沈黙したが、選び取った。
「彼女と共に在りたい……その想いに偽りはない……」
テーブルに手をついて、男は席を立つ。
「だが……だからこそっ! 彼女が命を賭してまで願ってくれた日常を捨て理想の夢に溺れることなどできない」
残された彼女は落児の居た場所へ向かって微笑んだまま、少し褪せた。
ひとりとなった構築の魔女も彼と共に席を立つ。
英雄と向き合った落児はきっぱりと言い放った。
「今一度、《構築の魔女》緋崎 咎女に誓おう、誓う世界は《ここ》ではない」
モノクロが、今は亡き彼女を含んだ幻影が崩れ落ちた。
●生を──叫ぶ
稍乃 チカ(aa0046hero001)は叫んだ。
「まーーだうだうだ言ってやがんのか、このバカチンが!!」
チカの目の前には褪せた薔薇と八宏の身体を納めた水槽。
ヌルの誘いを受けた八宏はそのまま水槽に囚われたのだ。
「薄幸顔!! 四国の事件でちょっとは成長したかなーって感心してた俺のハート返せごらぁ!!」
「……これが、彼の選択なのですよ」
しかし、チカは語り掛けるヌルなど目に入らないようで水槽の中の八宏へ怒りをぶつけ続けた。
──生きるのが怖い、前に進む理由が無い、笑っている資格なんか無い。誰かを護るために戦う事に迷いは無かったが、いつまで自分が「人間の味方」でいられるのか、不安で仕方がない。……まだ、英雄達以外には知られてはいない自分の本質が暴かれるのが恐ろしい。
それが八宏が吐露した心情だった。
それだけなら、まだよかった。
けれども、彼はこう続けた。
──だから死にたかった、なのに死ねなくなった。
八宏は言ったのだ。
「……死んで欲しくない、あの子には……だから、死ねないんです。…………それか、いっその事……」
──血を呑み肉を喰み骨を溶かす、愚神と変わらぬ化け物になって、全て忘れて、殺されてしまおうか。
追い詰められた八宏は、安寧の生でも静かな死でもなく、「それ」すら願った。
「こんの、馬鹿……野郎……っ」
チカの拳が水槽の冷たい硝子を叩いた。厚い硝子は英雄の力をもってしてもびくともしない。
チカと八宏が契約したあの日──八宏が従魔に襲われていたあの時、彼が生きる事を諦めていたのは知っている。
彼が人喰いの家系である事も、彼にもその兆しがある事も、そう成り果てる事を恐れているのも知っている。
──でも、だけど、だからこそ。
「貴方の契約者はとてもお疲れのようです。陽のような貴方が彼と代わってあげては如何ですか」
彼を食えとヌルが囁く。
重く湿ったような空気の中、唇がやたら渇いて動かない。
水槽に拳を当てたまま、愚神に背を向けたまま、チカは重くなった口を開いた。
「テメェの話にゃあ乗る気は無い。俺の旅路は俺が決める。
でっけぇ寄り道しちまったが、面倒見ると決めた以上は、こいつの選ぶものをちゃんと見届ける」
チカの瞳には灯のような決意の光が揺れていた。
「八宏、聞こえてるんだろ。他人に唆されて決めるのはやめろ。
──だけど、おまえが自分で選んだ答えなら、俺は、見届けてやるよ」
水槽の中の八宏が頷いたように見えたのは水の歪みのせいか。
振り返ったチカは水槽の前にどかっと腰を下ろした。
「それにだ、こんなやつ喰ったら腹壊すし、絶対不味いし? つか俺って今のままで完全無欠の美少年だし?」
不敵に笑ってみせるチカ。愚神はもう一度首を傾げた。
●きみをまもる
完全に狂気に侵された少女の傍に立つ、それは彼女の英雄では無かった。
『ナトくーん』
自分が甘えると嬉しそうに喜ぶシエロ。乗り心地の良い、温かな人。
ヌルが見せつけたシエロの過去とその姿にナト アマタ(aa0575hero001)は狼狽した。
幻影に半ば囚われたシエロは過去と今の狭間で、錯乱し絶叫とも言える叫び声を上げた。
……なのに、そんなシエロに寄り添う人影があった。
ナトと同じ青い礼装、けれどもだいぶ年上のそれはリプレイスメントと呼ぶナトが作り出した幻影、のはずだった。
それが、シエロを守り、愚神ヌルとの間に立ちはだかっていた。
「僕は、彼女に安寧の世界を選ばせるために来たのです──なのに、まさかこんなエラーに阻まれるとは」
「黙れ、道化」
リプレイスメントはヌルを睨みつけた。
今にもシエロを絡めとろうとする蔦を全て退けて、檻のような水槽から距離を取って彼女を守っていた。
「いつもそうだ……『世界』のために、貴様のために尊い一人が当然のように犠牲になる。
もう二度と……貴様には、『世界』には渡さん!」
その叫びがナトの記憶を揺さぶった。
そして、理解した。
なぜかここへと現れたリプレイスメント。その理由はわからないが、それが拒絶するのは愚神ヌルという個ではなく、運命とも総意とも言える『世界』。それは「大切な人を『世界』に渡し、委ねる」ことを拒絶するためにヌルからシエロを守っているのだ。
その姿がナトの心に訴えかける。
──『世界』が、シエロを連れて行く。
我に返ったナトは蛇弓を掴み、そして、シエロの叫びを聞いた。
「誰か、わたしを、求めてよぉ!!」
狂気に振り回される少女の、溢れんばかりの痛みがナトの胸を突いた。
──そんな、の。
弓を掴んだナトの指先に力が入った。
──求められることが幸せなら、誰よりも自分が求める、世界ぐらいじゃ相手にならないくらい、自分にはシエロが必要だ。
それを、伝えなくては。
ヌルを遠ざけるリプレイスメント。その周囲で波のようにうねる蔦を必死に弾いて、震えるシエロの下へナトは飛び込んだ。
「……シエロ……シエロ!」
ナトの声にシエロは動きを止めた。彼女の脳髄まで侵そうとした熱が、その声でさあっとひいてゆく。
揺れる瞳が焦点を結んだ。
「そうだ……ウチの居場所は……こっちにある!」
思考を奪う熱病のような狂気は消えはしなかったが、それでも、彼女は必死に自分の英雄を抱き留めた。
まるで乾いた砂に零した水のように、ナトの気持ちがシエロに染み込む。
──世界よりも求めてくれる人がいるなら何のためらいもない、ナトくんにずっと必要とされたい!
「ナトくん、ナトくん!」
シエロがナトの名を呼んだ瞬間、激しい狂気は完全に沈黙を選び、ヌルの姿は溶け落ちた。
●夜明け
「ヌル。どういうつもりだ?」
水槽の前のアーテルは厳しい口調で目の前の愚神を問い詰める。
ヌルの能力を考えると、見せられた黎夜の選択は愚神の幻影だろうと彼は判断した。
しかし、その反面、心は揺らぐ。
今の黎夜は確かに「生」に寄った道を歩いている。けれども、確かに時折ふっと──「死」へと踏み込みそうな危うさをアーテルも感じてた。
『話そう……全部……』
そう言ったのに。
黎夜が抱く「アーテル」への罪悪感も聞いた。
だけど、まさか黎夜が自分の幻影に食べられたいと望むなんて。
──ああ嫌だ。
アーテルは薔薇に絡めとられた黎夜から目を反らし、うすら笑いを浮かべた愚神を睨んだ。
──俺は、彼女を生かす為に動いていたというのに。
水中を浮遊する黎夜の姿に、五年前の出来事が重なった。
初めて彼女に触れた時、その細さと存在の希薄さに驚いたことが蘇る。
アーテルが黎夜と交わした誓約は「お前を生かす」。
その時はアーテル自身に望みはなかった、否、望んでいることすら解らなかった。
それが今、わかった気がした。
この希薄な幼い少女を死なせたくはなかったのだ。
──黎夜を死なせたくないのだ。
沈黙の後、アーテルが吐いた大きなため息。
「──俺は信じたくないだけだろうな」
いつの間にかアーテルの手には弓が握られ、後ろの水槽は空であった。
「それでも黎夜を生かす道を選ぶ。死なせるものか。……これが俺の汚い部分と知っている」
催眠による幻想の空間なら自由に飛ぶこともできるだろう──こうやって、黎夜の為に矢を射ることも。
水槽の中で黎夜は眠ってなどいなかった。
ただ、閉じた水槽の中でずっと英雄を見ていた。
それを知らないはずのアーテルはヌルへと彼女を「生かす」ときっぱりと言った。
嬉しい……のだろうか、だが、同時にやはりいつもの「恥ずかしさ」が込み上げて来る。
あんなにはっきりと生かしたいと言われてさえ、「でも……」と己に対する否定的な想い。
だが、黎夜はそれを乗り越えようと前を向いた。
「アーテルが、うちを生かしたいと望むなら、な……」
アーテルに望まれることで恩を返せるなら、それでいいのではないだろうか。
この「恥ずかしさ」に耐えることが黎夜のできることなのではないだろうか。
それに、なにより──。
「まだ、あの人の隣に立ちたいって、思うから……」
まだ、アーテルの相方でありたいと思ってしまった。自分が。
黎夜の抱くアーテルへの「裏切られることも含めての信頼」。
それは本当に期待していないからなのか。
それは本当に裏切られてもいいと思っているからなのか。
「ごめんな、アルブム……」
アーテルと同じ弓を構えた黎夜の身体をライヴスの蝶が包んだ。
●共に戦い歩むため
「千颯……」
白虎丸(aa0123hero001)は水槽の中で浮遊する相棒の姿を見る。
「軽蔑、しましたか」
淡々と尋ねるヌル。
「豪胆な貴方の相棒として、彼は、ふさわしくありません。だったら、貴方が彼を食ってしまった方が、よっぽど多くを守れる。彼もずっと眠って」
「断るでござる。お前の甘言など聞く耳持たぬでござる」
正直、白虎丸とて思うところが無いわけではない。だが、彼は努めて平然とそう言い放った。
──千颯、俺は別に軽蔑などしてないでござるよ。千颯が取り乱した姿は以前も見た事があるしな。
白虎丸は、幻影の中から千颯が自分に向けた恐れも感じ取っていた。
あの男は対等な相棒である白虎丸の前では、軽薄で楽天家な「千颯」でありたいのだ。
それはつまり、情けない姿を見せたくなく見て欲しくないということ。その姿を見られて誰かに落胆され、また、去られることを不安に思う……その姿を、千颯は誰にも見せたくないのだ。
それを、この愚神は白虎丸へと見せつける。
相棒が一番して欲しくないことをしてくる。
「もっと彼の心の痛みを、吐露を見たいですか」
大切な人に捨てられたくない、見捨てたくない、いなくならないで欲しい──。
そう千颯は怯える子供の様で白虎丸はただただ心を痛めた。
だが。
──俺は、千颯が俺に言いたくないことは聞かん。『互いの意思を尊重する。束縛しない。意見が食い違った時はより思いの強い方を優先する』──それが俺たち誓約(やりかた)で、我らの絆でござる。
白虎丸は目を閉じた相棒へと吼える。
「俺は千颯の為にいるのでござる! 千颯を裏切る事などあり得ないでござる!
千颯!! お前は強い子だ! 己の姿を恥じるな! 恐れるな!」
白虎丸は愚神を後目に、ただただ相棒だけを見て語り掛けた。
「俺はお前がどんな人間であっても決して裏切ったりはしない! 最後までお前の隣にいるとここに誓おう!」
──だが、白虎丸の叫びに返答は無かった。
「見ていたでしょう。彼はもう選び取ってしまった」
ヌルの言葉通り、白虎丸の目には水槽は沈黙して映った。
……水槽の中の千颯は眠ってなどいなかった。だが、白虎丸を見てもいなかった。
まとわりつく蔦にされるがままになりながら、受け取った箱を見つめていた。
「俺は……俺はもう……」
疲労感は果てしなく、彼を包む蔓は優しく温かく。
その時だった。発破をかける白虎丸の怒声が耳に飛び込む。
『お前が言った言葉だ。千颯! 自分に負けるな!』
はっと顔を上げた千颯の目に鋭い光が灯る。
白虎丸は水槽の前でリプレイスメント・ファイルを起動させた。
リプレイスメント──己が恐れる邪英化した自分。そのデータはヌルの世界では意思を持った。
「見よ、千颯。俺は……まだこいつを自分だと認める事は出来ないでござるが……それでもお前が前に進むと決めたなら俺もこいつと向き合うでござる!」
現れた銀髪の男は苦笑する。
「……小童の為だけに吾を呼び出したか? 汝の溺愛ぶりにはほとほと呆れ果てるわ」
愚神は怪訝な顔をした。
リプレイスメントはヌルが作り出したものだ。
正確には『ヌルの働きかけによって英雄自身が身の内から作り出したもの』だ。
けれども、ヌルの力ではなく、ファイルを媒体に召喚されたそれは、彼の世界で血肉を得ても彼の思う通りに動かない。
「五月蠅いでござる!」
叫ぶ白虎丸の前で、リプレイスメントは槍を振るった。
「勝手に呼出ておいて……汝も中々のものよな」
止める間もなく、その穂先は水槽の硝子を突き抜けて中を抉り取り──その動きが強い力によって止まる。
「白虎ちゃん……くさ過ぎー」
銅金を掴んだ男が厚い硝子を突き破り、中から転がり出た。
「でも、あんがとな……」
掴んだ槍とともにリプレイスメントは姿を消し、そこにはヌルと対峙した白虎丸と千颯だけが立つ。
●惑う桜花
伊邪那美(aa0127hero001)は言葉を失っていた。
恭也の強い意志によって、彼らはヌルの幻影に初めから囚われていなかった。
だが、それでも、伊邪那美はなぜか言葉を発することができなかった。
恭也は正しい。
愚神の甘言は伊邪那美の怒りさえ誘った。
「穏やかに休める場所を、僕は、提案しているだけです」
弱々しく主張するヌルへ恭也は二メートルを超す大剣で迷いなく斬りかかる。
「……ぐっ」
少年が、口から赤い塊を吐き出した。だが、恭也の攻撃は止むことはない。
その場には重なるようにただ戦う恭也の映像が映し出され続けている。
血飛沫のような赤い染みが恭也の顔を汚した。
伊邪那美の知っている無口で時に意地悪で、でも、彼女の相棒たる少年はただ剣を振るう。
──恭也、少し、大きくなったんだ。
こんな時に、鬼神のように戦う相棒の姿に、伊邪那美はおかしな感慨を抱く。
●潜伏する覚醒
愚神ヌルを倒し、もしくは跳ねのけた瞬間、彼らはぶ厚い何かを破り出て、外へと転がり出た。
咄嗟に受け身を取る共鳴状態のエージェントたち。
──そこでは、ひとりの女性が美しい声で歌っていた。
壊れた屋根から差し込む夕陽はまるでライムライト。
歌う歌はありふれたポップミュージックなのに、まるで神託のように厳かに心を揺らす。
「『エヴァイユ』……」
いち早くその曲に気付いた黎夜の声に、一同は身構えた。
あの歌を歌うのなら、それは未だ行方不明の『彼ら』しかいない。ならば。
「休んで……」
険しい顔をしたナトに促され、共鳴の主体をナトに譲るシエロ。そして、その後ろでシエロを守るかのように得物を構えるナトのリプレイスメント。……それを目にした千颯は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに自分もブレイジングランスを構える。
『千颯』
「大丈夫だ、あと一戦くらいは行けるぜ──白虎ちゃん、今は一緒に戦わせてくれ」
歌を口ずさみながら、リーナの細腕が大剣を抜いた。
大剣を振るうリーナだったが、疲弊していたとはいえ、実力差は明らかだった。
強力なバトルメディックの千颯の壁をリーナは破ることができなかった。
その隙に、Pride of foolsを手にした構築の魔女はジャックポットでありながら距離を詰めて格闘戦を交えた戦いをし、ナトとそのリプレイスメントの矢が、黎夜の魔法がリーナのライヴスを削り取る。
歌声が止まるまで、そう時間がかかることはなかった。
埃っぽい廃屋の中で、共鳴を解いたシエロはナトに寄り添った。
「……ナァートくーん……ありがとー」
「……」
えへへと笑ういつものシエロへ、ナトもいつものようににっこりと笑いかける。
幸せを噛みしめたシエロだったが、すぐに気付いて後ろへと振り返る。
「あ、リプさんもね?」
「……」
ありがとう、というシエロへ、ナトのリプレイスメントは微妙な表情を浮かべた。
一方、構築の魔女は落児を見る。
「ふむ……、まぁ、すべての願いが叶うほどこの世界は優しくありません」
彼女の言葉が何を指しているか理解した落児は答える。
「ロローロ」
「えぇ、でも、願うだけなら許してくれる程度にこの世界は優しい」
「……ロロ」
仲間たちのやり取りを見て、それぞれ何らかの幻影を見たことを察した千颯は苦笑した。
「まあ……今は色々考えても仕方ないよなー」
そう言うと、千颯は自分たちが出て来たであろうそれを眺める。
仲間たちもその声に、揃ってそれを見上げる。
あちこち粗く破れたそれは醜くぶよぶよと太った巨大な珊瑚に似ていた。
それが廃屋の大半を占拠していた。
「リプレイスメントが存在するということは、ここもヌルの幻影世界かと思いましたが──」
構築の魔女が慎重に言葉を選ぶ。
「記憶が正しければ、私たちはつくば市に発生したドロップゾーンの対処に向かったはず。ならば、ここはドロップゾーンの中、なのでしょうね」
ドロップゾーンの中でリプレイスメントが顕現し、そして、洗脳されたリーナと現実に戦った。
「幻影が、現実に侵食している……?」
「ドロップゾーンの中だけかもしれないけどなー」
眉を顰めたアーテルに、リーナたちの介抱をしていた千颯が努めて軽い口調で言った。
しかし、今までのヌルとの戦いで「現実」だったのは、唯一、催眠に囚われたエルナーとの一戦だけで、その時はリプレイスメントは顕現していなかった。
それに、多くは語らなかったが、エージェントたちはさっきまでそれぞれほぼ同時刻にヌルと対話をしていた。
「また……催眠とか幻影じゃないといいんだけどね」
まだ少しぼんやりする頭を振りながら、シエロがぼやいた。
「それは……ありません」
聞きなれない女性の声に一同は千颯を見る。
千颯が回復を施していたリーナが目を覚ましていた。
彼女は念のためにと縛られた手首を悲しそうに見て、謝罪した。
「ご迷惑をおかけして……申し訳ありません。もう、たぶん、大丈夫です。それに、記憶も全部残っています」
必死に涙を堪えながら、リーナは彼らに言った。
「ここはヌルのドロップゾーン。そして、時間が経てばここは崩壊するでしょう。ヌルはもういませんから」
驚くエージェントたちにリーナは語った。
「ヌルは自身を砕いて、この珊瑚を作り出しました。
ヌルの目的は……リンカーのリプレイスメント化。この中に、ヌルの欠片を植え付けられて捕らえられたリンカーたちが居るはずです。彼らはいずれリプレイスメントとして外へと孵化するでしょう……わたしたちのように」
そう言って、リーナは胸元を抑えた。彼女は共鳴を解いていない。その中にはクリフが居るはずだ。
「リプレイスメントとは言っても、ヌルの居ない今ではそれは強力な催眠に過ぎません。
けれども、同時に、ヌルが居なければ解くこともままならない催眠です」
無言でリーナたちを囲むエージェントたち。
「……あれ……」
周囲に目を配った黎夜が小さく息を呑んだ。
座り込んだリーナの前に立つ構築の魔女と落児、共鳴した千颯、リプレイスメントを連れたシエロとナト。
そして、黎夜とアーテル。
記憶のはっきりしてきた頭が警告音を鳴らす。
見上げる黎夜の視線を受けて、アーテルもまた顔を強張らせた。
そうだ、ここへは六組のエージェントが潜入したはずだった。
「邦衛と……御神、は──?」
●選びわけられたアムネシア
そうして、八宏はこの世界への『定住』を選んだ。
──ここに留まり続ければ、少なくとも今後自分が誰かに害を及ぼす事は無いのだから。
愚神の姿から生気が消え、その姿は地面に融ける。そして、水槽の下から溢れ出した薔薇の蔦がチカと八宏を飲み込んだ。
──生きろ生きろ嫌でもだ!
びくり、静寂の中の八宏の身体が揺れた。選びながらも、まだ彼には迷いがあった。
かつて「生きろ」と言葉を投げかけたチカの真意を、八宏は未だ理解できない。
理解できないままで良いのかと──。
『俺はまだ待つからな。おまえがおまえの答えを出すまで、ここを離れないぞ』
チカの声に八宏は重い瞼を開けようと──して、そのまま蔦に絡めとられた。
『俺はヌルに協力するつもりは毛頭無いからな。──ただ、手の掛かる相棒(おまえ)の導き出した答えを聞くために残るんだ』
少年の強い意志を絡めとろうと忘却を司る褪せた薔薇が牙を向く。
強力なドレッドノートの一撃がヌルに撃ち込まれる寸前、恭也の共鳴が解けた。
その場に膝をつく恭也。
「──伊邪那美」
恭也の前に立ったのは見慣れた英雄の少女だ。闇の中で彼女の髪が白く光っていた。
「……分かったよ。恭也を幻影世界に留める事に協力する」
「何を言って……」
振り返った英雄の顔を見て、恭也は言葉を失った。
いつも気丈な少女は様々な想いの混じった表情を浮かべていた。
それは慈しみのような憐れみのような、悲しみのような。
『悪いとは思わん。ここで息の根を止めさせて貰おう』
恭也のその言葉はか愚神の貧弱な姿と共に、伊邪那美の胸に刺さった。
──確かに、恭也なら、必要ならそうするかも知れない……。
少年へ一方的に剣を向ける恭也の、いつもと違う姿。
そして、周辺に無秩序に現れる、今までの戦場での恭也の姿。
──でも、誰だって……そんな事はしたくないはずだし、恭也だってきっと……。
伊邪那美の戸惑いをよそに恭也の剣は少年の姿をした愚神を貫く。
同じく、まだ若い、少年から青年になったばかりの相棒の姿。
同じ年の「人間」なら、今、なにをしている?
このまま、「恭也」は、今、なにをする?
その瞬間、伊邪那美の心は耐え切れなくなった。
「でも、条件として恭也を留める世界は恭也にとって安らげる世界にして」
伊邪那美の言葉に、遅まきながら恭也は気付いた。
ヌルは初めから恭也(ライヴスリンカー)と会話などしていなかった。
あれはずっと、彼と共鳴する伊邪那美へと語り掛けていたのだ。
言葉を失った恭也の頬を伊邪那美はそっと撫でた。
「多分だけど、ボクの行動は間違ってるんだろうね……でも、恭也が無理をする必要はないんだ」
少女の手は凍り付くように冷たく、そして、ぎこちなかったが、優しさに溢れていた。
「伊邪那美──」
彼の英雄の大きな瞳は鏡のようで、恭也の言葉はその向こうへ届かなかった。
『おやすみ……恭也』
一瞬で数多の蔦がふたりを飲み込んだ。
結果
シナリオ成功度 | 成功 |
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